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社員ブログ

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小鳥 晃稚(滋賀営業所 営業部)

[ PROFILE ]
こんにちは、滋賀営業所のオードリー事(おどり あきのり)です。滋賀大好き、真夏大好き、自然大好きな入社2年目、24歳。小鳥は岐阜の高山にある地名から来ている様です。趣味は魚釣り、昆虫採集・養殖、スポーツ観戦、映画鑑賞、寝る事です。 今年から本格的にお客様を持たせて頂き、獅子奮闘の営業を日々楽しんで働いております。まだまだ半人前の営業マン。日々勉強させていただき、成長し続けると言うキーワードを大切にし、初心を忘れず奮闘致します。皆様、よろしくお願いいたします。

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2009年12月16日

ラグビーボール

僕はスポーツの中で「ラグビー」と言うスポーツがたまらなく大好きです。
年下の従兄弟がいるのですが、彼は本格的に中学から社会人まで本気でラグビーに打ち込み、ラグビーに情熱を注ぎ、惚れ込んでいる従兄弟の影響で大好きになってしまいました。

あの楕円形で歪なボールを使用し、パスしたり、蹴ったりして、相手と揉みくちゃになりながらも前にボールを皆で一致団結してゴールラインまで運んでいく、それぞれのポジションごとの動き(仕事)は、違えどもトライすると言う目的は一緒。
絶対にトライする!負けたくない!
その思いで前へ前へと突き進んでいく、切り込んで行く勇気!
敵に前を囲まれたら周りに仲間が必ずいる。そして仲間の元へボールをパスすればいい!
本当に仲間を信じ合う思いは素晴らしいです!
だからこそ、ラグビーとは、素晴らしいスポーツなんです。

話は変わりまして、ラグビーボールを持たれた方々はお分かりだと思いますが、単純にボールを上から下(地面)へ落とすと(歪な形をしているので)ボールは元の地点まで戻ってこない。また、試合に向け戦略を立て計画し、抜かりない戦略だと思っていたら当日の試合で戦略を実行しているのにも関わらず、全ての戦略を敵に読まれてしまい、動揺が連鎖を生み、自分たちのサインプレーなども通用しない、そして、負け試合になる。

全てがうまく行かない・・・・・。

大げさだけれども
これもまた「人生」と同じ事なんだなぁと・・・・・

うまく行かなければ、計画を立て直し、次へ繋げて行く、考えて、考えて答え出す。
これって当たり前の事だと思いますが、この考え方を基本とし、常に考え抜く、打開案を考え抜く力を養う。「勝ち試合こそ、負け試合である」と言う言葉があるが、これもまた、深い言葉であり、勝ち試合こそ分析し成功への道を分析すべしと考えております。
取敢えず、うまく行かない事を「楽しむ事」これが一番肝心で、あると思います。

恥かしながら、私この思いを忘れておりました。
今後、大切にして行きたい思いの一つです。

投稿者 admin : 19:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年12月08日

ウインターミーティング2009

久々のブログアップです。

ご無沙汰しております。小鳥です。

突然ですが、先日の土曜日にウインターミーティングが京都本社であり、
全社員集まり、それぞれの成果発表など行いました。
それぞれの活動の発表や表彰式などがありました。
その中でも社員による成果発表が印象に残りました。
準備時間が少ない上、普段の業務と並列しながらの製作
資料をまとめ上げ、本番では、短時間で要点を延べておられておられました。
分かりやすかったのが印象に残りました。

人前で発表する事は、本当に恥ずかしい!
恥ずかしさを克服する為には、要点を整理し、時間を掛けまとめ上げる事が大切である。
本番は、ただ堂々としとけば良いのだと感じました。

自分も良い部分だけを見習い、今後に繋げて行こうと思いました。

話は変わりまして、その後、忘年会に参加し普段あまり親交が無い(無くも無いのですが・・・・・)
皆様方とお酒を交えながら色々と喋りました。(内容は秘密ですが・・・・・)

本当に学びの多い、ウインターミーティングでした。

投稿者 admin : 19:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年10月06日

戦国武将 蒲生氏郷1556~1595


滋賀県出身の戦国武将は数知れずいる中、現在も氏郷の故郷である滋賀県の日野町では語り継がれており、愛されている戦国武将の一人だ。
そんな彼は、実は日野商人、近江商人を育てた方である。
そこで、彼の生き様や近江商人を育てた英雄、蒲生氏郷をピックアップして紹介致します。
彼は、織田信長の人質から小姓へ転進し、家臣となり、その後、信長亡き後秀吉に仕えた人物である。1556年生まれ1595年没の40歳まで生きた人物です。
信長は、氏郷の事を「眼精常ならず」(信長公記)と言った。目の輝きが尋常ではない程意欲的で、生き生きとしている様子であったと言う。
秀吉は「この男はわしに似ている。わしのやろうとする事を先にやってしまう。恐るべき男だ」と言った。
千利休は「日本の武将の中で一人いるか二人いるかの文武兼備の名将である」と言った。

そこまで、あまたの武将や文化人を唸らせた蒲生氏郷とはどんな人物だったのだろう。

近江蒲生氏は藤原秀郷(フジワラヒデサト)の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
近江蒲生郡日野(現在の滋賀県日野町)に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。永禄11年(1568年)、主家の六角氏(六角承禎)が織田信長によって滅ぼされたため、父・蒲生賢秀(ガモウカタヒデ)は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られたのが、氏郷である。その際に、信長は彼の資質を見抜き信長の官名である「弾正忠」から「忠」の文字を与え忠三郎と名乗らせ、小姓の一人に加えたのである。信長は彼を可愛がり娘の冬姫との結婚を示唆している。その後は、織田家一門として手厚く保護され、家臣となった。

武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房(キタバタケトモノリ・モトフサ)(現在の三重県津市近辺)との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻め、元亀元年(1570年)の姉川の戦い(浅井・朝倉VS織田・徳川)、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島(一向一揆VS織田)攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。
数多の戦いで、先陣に立ち武功を挙げ、現場活躍を見せたに違いない。
天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
光秀は明智光春(アケチミツハル)、武田元明(タケダモトアキ)、京極高次(キョウゴクタカツグ)らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻略に移る手筈だったが、直前山崎の戦いで敗死した。
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。
清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や1590年の小田原征伐などに従軍する。

その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄、四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。城は、蒲生群流の縄張りによる城作りを行い、7層の天守閣(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

一方、天正15年(1587年)7月には、秀吉から「羽柴」の姓を賜っている。
秀吉の姓を賜った時から自身の有力家臣に蒲生姓を乱発し、家中に稀少なるべき同名衆を大量生産し、前田利家にたしなめられている。蒲生家中に蒲生姓の家臣が多いのはこのことによる。(蒲生頼郷・蒲生郷舎など)
また、家臣を大切にし、また茶湯にも興味を示して利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており(千利休の死後、その子息少庵は氏郷の許で蟄居している)、諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評される。また和歌にも秀でており、会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐にて故郷日野を偲んで詠んだ歌「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」が有名。またキリシタン大名でもあり名をレオンと言う。
時代は遡り、賤ヶ岳の戦い後、柴田勝家の寄騎であった佐久間盛政(サクマモリマサ)の弟の佐久間安政・勝之(サクマ ヤスマサ・カツユキ)兄弟が氏郷との対面の際に畳の縁に躓いてしまう失態を演じてしまった。この際に傍にいた小姓衆がその様を笑うと、氏郷は「お前達は畳の上での勤めが一番であろうが、彼らは戦での働きが一番なのだ。笑うなど持っての外」と嚇怒して、特に二人の家臣に恥をかかせなかった。家臣を非常に大切にする氏郷の人望の厚さを物語るエピソードである。後に佐久間安政・勝之兄弟は彼の部下を大切にする気持ちに感銘を受け、家臣となっているから当時の氏郷の部下に対する思いが汲み取れる。

以降は、会津の旧領主である伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(なお、この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実(クノヘ マサザネ)の乱を制圧。翌文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)2月7日、京都の伏見蒲生屋敷において死去。享年40であった。当時、氏郷を診断した医師・曲直瀬玄朔が残したカルテ「医学天正記」には、文禄の役へ出兵の途中、既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記されている。今でいう直腸癌または膵臓癌だったと推測されている。

その後、蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)
理由としては、人望と行動力が乏しかった秀行は家臣団と対立し、離反が相次ぎ秀吉は蒲生家に減俸を命じたのである。しかし、父の時代に有力な家臣団を創り上げており、秀行は助けられ、明治期まで蒲生家は、藩として存続して行くのである。

家臣を思いやり人望厚く、戦場でもやり働きで活躍し頭角を現した氏郷。茶道、和歌などにも秀でた文化人であった氏郷。楽市楽座を推奨し地元から商人を作り出し環境造りを行った自らが商人となり自領で生産した特産品の販売を推奨した氏郷。
そんな氏郷の考え方を基本とし、目標とし、現代の氏郷みたいな人物になりたいです。

投稿者 admin : 19:37 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年10月06日

宇喜多 直家(ウキタ ナオイエ)

宇喜多 直家(ウキタ ナオイエ)
この武将は、とてもマイナーで、ごくわずかなマイナー戦国武将名を知っている人だけが知っていると言う武将である。この武将は、あまり好きではないが、弊社のN社員からのリクエストで紹介させていただきます。

宇喜多家と言えば、宇喜多秀家ならお分かりの方がおられると思います。
関ヶ原の戦いにて西軍の副大将を努めた豊臣五大老の一人で戦後は家康の免状を受け現在の八丈島へ流された秀家の父親に当たるのが、今回ご紹介させて頂く宇喜多直家です。

直家は戦国を代表する極悪人である。その為、あまりファンが少なく、ごく一部のファンが存在するみたいである。そんな彼の行いを見てみよう!

享禄2年(1529年)、宇喜多興家(ウキタ ノリイエ)の子として生まれる。備前国邑久郡豊原荘(現在の岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城(トイシジョウ)で生まれたとされるが、正確な史実の裏付けは不明です。

天文3年(1534年)、祖父・宇喜多能家が他家の島村盛実(シマムラ モリザネ)らによって暗殺された。直家わずか6歳であった。その後、父・興家と共に放浪の人生を送ったという。成人(15歳)すると天神山城主、浦上宗景(ウラガミ ムネカゲ)に仕え浦上家臣団の中で頭角を現す、
直家は策謀に長けており、祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、中山備中守や龍口城主穝所元常を殺害、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たした。

永禄9年(1566年)2月には美作(岡山県東北部)へ進出した備中(岡山県西部)の三村家親(ミムラ イエチカ)を、阿波細川氏の浪人遠藤兄弟(又次郎、喜三郎)を起用して鉄炮で暗殺。翌年7月の明善寺合戦によりそれまで備前国西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。

その後、自身の姻戚関係の金川城主、松田元輝・元賢(マツダ モトテル・モトタカ)親子、さらに岡山城主、金光宗高(カナミツムネタカ)を没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった。

永禄12年(1569年)、織田信長や西播磨(現在の兵庫県西部)の赤松政秀(アカマツ マサヒデ)と結託し主君である浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら赤松政秀が青山・土器山合戦で黒田職隆、孝高(クロダ モトタカ・ヨシタカ)親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正(イケダ カツマサ)、別所安治(ベッショ ヤスハル)なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に浦上宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされた。
なぜか、この時特別に助命され帰参を許されている。

天正2年(1574年)に再び浦上宗景からの独立を狙う直家は、小寺氏預かりとなっていた宗景の兄・浦上政宗の孫・久松丸の存在に目をつけ小寺政職に久松丸の備前入りを打診し、許可を得るとこれを擁立し宗景に対して反旗を翻す。今回は久松丸の擁立と直家の事前の諜略により美作や備前国内での宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、更に宗景と犬猿の仲であった安芸の毛利氏と結び軍事面での不利を覆す。天正3年(1575年)の毛利氏による三村氏攻撃にも加勢するなど協同体勢を取った。同年9月、宗景の腹心であった明石景親(アカシ カゲチカ)ら重臣たちも内応させ宗景を播磨国へ退け、備前のみならず備中の一部・美作の一部にまで支配域を拡大した。
宗景追放後も依然として備前には旧浦上家臣の勢力が残っており、また宗景や一門の浦上秀宗なども播磨からこれらと密かに連絡を取り合い、度々備前に潜伏する旧浦上家臣の煽動した小規模な蜂起に悩まされる事となる。この状況は天正6年(1578年)12月の浦上残党が一斉蜂起し、幸島を占拠するという事件まで続く事となる。浦上宗景・秀宗らが首謀者となったこの武装蜂起は一時期、天神山城を奪うなど勢いを見せ鎮圧には数ヶ月を要した。しかし、これを期に備前や播磨に潜んでいた旧浦上の勢力を領内から放逐し、宗景の領主復帰の野望を打ち砕きついに宇喜多家の領内での安定した支配権が確立される事になった。
しかし、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国方面に進出してくると、これに対抗、天正7年(1579年)5月には信長に内応したとして東美作の後藤勝基(ゴトウカツモト)などを滅ぼしたものの、直家自身も毛利家と手を切って信長に臣従する。以降美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返すが、天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。
その後、秀吉に人質に取られていた次男の秀家はその後、五大老に含まれている。また、正室の父、中山信正もまた、直家に誅殺され所領没収されている。

合戦続きの戦国時代において、これ程まで誅殺、殺戮、裏切りを平気で行った武将は数多存在する中で、直家のやり方は目にあまるやり方である。これ程までして出世意欲を剥き出しにして人を裏切り、人を使い、最後は誅殺を繰り返す行いは、この戦国時代を生きて行くのに必要であり、生きてゆけない事を意味するのである。史実ではこのような事が公にされない信長、秀吉、家康もこの様な事繰り返して、出世しているのである。
直家の生き方も見方を変えれば、当然の事をしたまでと捕らえる事が出来るのである。

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2009年10月02日

ゴルフ

前回書かせて戴きましたCD「superfly」購入しました。やはり、彼女の歌声は元気が出ます。毎日聞いて会社まで来ております。このCD買ったのですが、以前レンタルで借りておりました(笑)。

で、今回は最近新たにはじめた事を紹介させて頂きます。

突然ですが、最近ゴルフ始めました。

ゴルフはお金がかかりますよね~お金に羽が付いた様に飛んで行ってしまいます(笑)。

ゴルフは難しい・・・・・苦手・・・・・嫌い・・・・・地味・・・・・と思っていたゴルフが今や楽しく感じております。(歳をとったのかな?笑 石川遼君のお陰かな? 弟の影響?)

何が楽しいかと申しますとクラブの芯にボールが当たり、真っ直ぐ正確に思った所に飛んだ時の爽快、爽快さが快感になるのです。あの音が心地よい(笑)
この「快感・爽快感」、最近アイアンを中心にですが、ようやく体感出来る様になりました。
週末の土日、2時間程度打ちっ放しの練習場へ通った賜物です。
ゴルフは理論より、実践あるのみ練習あるのみだと思います。体で覚えるほか無いスポーツだと思います。
しかし、コースに出れば理論が必要かも・・・・・今は体でコツを覚える事を第一に考え、もっぱら打ち込んでます。

言っても正確に飛ぶようになったのは、アイアンぐらいですけど・・・・・
練習あるのみです。頑張ります。

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