小鳥 晃稚(滋賀営業所 営業部) http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/ こんにちは、滋賀営業所のオードリー事(おどり あきのり)です。滋賀大好き、真夏大好き、自然大好きな入社2年目、24歳。小鳥は岐阜の高山にある地名から来ている様です。趣味は魚釣り、昆虫採集・養殖、スポーツ観戦、映画鑑賞、寝る事です。 今年から本格的にお客様を持たせて頂き、獅子奮闘の営業を日々楽しんで働いております。まだまだ半人前の営業マン。日々勉強させていただき、成長し続けると言うキーワードを大切にし、初心を忘れず奮闘致します。皆様、よろしくお願いいたします。 ja 2010-03-16T18:57:52+09:00 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2010/03/post_37.php
私、オドリは一身上の都合により3月末日を持ちまして、三共精機を退職する事となりました。

入社して2年、本当に短かったです。
今までお世話になったお客様や仕入先様、メーカー様、本当に有り難うございました。
心から感謝しております。皆様方に助けて頂き2年間来れました。

今後、私は専門職に就きますが、三共精機で学ばせて頂いた色々な事柄を次でも活かして行きます。

これからもどうぞ三共精機を宜しくお願い致します。

]]>
admin 2010-03-16T18:57:52+09:00
ラグビーボール http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/12/post_36.php 僕はスポーツの中で「ラグビー」と言うスポーツがたまらなく大好きです。
年下の従兄弟がいるのですが、彼は本格的に中学から社会人まで本気でラグビーに打ち込み、ラグビーに情熱を注ぎ、惚れ込んでいる従兄弟の影響で大好きになってしまいました。

あの楕円形で歪なボールを使用し、パスしたり、蹴ったりして、相手と揉みくちゃになりながらも前にボールを皆で一致団結してゴールラインまで運んでいく、それぞれのポジションごとの動き(仕事)は、違えどもトライすると言う目的は一緒。
絶対にトライする!負けたくない!
その思いで前へ前へと突き進んでいく、切り込んで行く勇気!
敵に前を囲まれたら周りに仲間が必ずいる。そして仲間の元へボールをパスすればいい!
本当に仲間を信じ合う思いは素晴らしいです!
だからこそ、ラグビーとは、素晴らしいスポーツなんです。

話は変わりまして、ラグビーボールを持たれた方々はお分かりだと思いますが、単純にボールを上から下(地面)へ落とすと(歪な形をしているので)ボールは元の地点まで戻ってこない。また、試合に向け戦略を立て計画し、抜かりない戦略だと思っていたら当日の試合で戦略を実行しているのにも関わらず、全ての戦略を敵に読まれてしまい、動揺が連鎖を生み、自分たちのサインプレーなども通用しない、そして、負け試合になる。

全てがうまく行かない・・・・・。

大げさだけれども
これもまた「人生」と同じ事なんだなぁと・・・・・

うまく行かなければ、計画を立て直し、次へ繋げて行く、考えて、考えて答え出す。
これって当たり前の事だと思いますが、この考え方を基本とし、常に考え抜く、打開案を考え抜く力を養う。「勝ち試合こそ、負け試合である」と言う言葉があるが、これもまた、深い言葉であり、勝ち試合こそ分析し成功への道を分析すべしと考えております。
取敢えず、うまく行かない事を「楽しむ事」これが一番肝心で、あると思います。

恥かしながら、私この思いを忘れておりました。
今後、大切にして行きたい思いの一つです。

]]>
admin 2009-12-16T19:41:00+09:00
ウインターミーティング2009 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/12/2009.php 久々のブログアップです。

ご無沙汰しております。小鳥です。

突然ですが、先日の土曜日にウインターミーティングが京都本社であり、
全社員集まり、それぞれの成果発表など行いました。
それぞれの活動の発表や表彰式などがありました。
その中でも社員による成果発表が印象に残りました。
準備時間が少ない上、普段の業務と並列しながらの製作
資料をまとめ上げ、本番では、短時間で要点を延べておられておられました。
分かりやすかったのが印象に残りました。

人前で発表する事は、本当に恥ずかしい!
恥ずかしさを克服する為には、要点を整理し、時間を掛けまとめ上げる事が大切である。
本番は、ただ堂々としとけば良いのだと感じました。

自分も良い部分だけを見習い、今後に繋げて行こうと思いました。

話は変わりまして、その後、忘年会に参加し普段あまり親交が無い(無くも無いのですが・・・・・)
皆様方とお酒を交えながら色々と喋りました。(内容は秘密ですが・・・・・)

本当に学びの多い、ウインターミーティングでした。

]]>
admin 2009-12-08T19:20:00+09:00
戦国武将 蒲生氏郷1556~1595 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/10/15561595.php
滋賀県出身の戦国武将は数知れずいる中、現在も氏郷の故郷である滋賀県の日野町では語り継がれており、愛されている戦国武将の一人だ。
そんな彼は、実は日野商人、近江商人を育てた方である。
そこで、彼の生き様や近江商人を育てた英雄、蒲生氏郷をピックアップして紹介致します。
彼は、織田信長の人質から小姓へ転進し、家臣となり、その後、信長亡き後秀吉に仕えた人物である。1556年生まれ1595年没の40歳まで生きた人物です。
信長は、氏郷の事を「眼精常ならず」(信長公記)と言った。目の輝きが尋常ではない程意欲的で、生き生きとしている様子であったと言う。
秀吉は「この男はわしに似ている。わしのやろうとする事を先にやってしまう。恐るべき男だ」と言った。
千利休は「日本の武将の中で一人いるか二人いるかの文武兼備の名将である」と言った。

そこまで、あまたの武将や文化人を唸らせた蒲生氏郷とはどんな人物だったのだろう。

近江蒲生氏は藤原秀郷(フジワラヒデサト)の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
近江蒲生郡日野(現在の滋賀県日野町)に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。永禄11年(1568年)、主家の六角氏(六角承禎)が織田信長によって滅ぼされたため、父・蒲生賢秀(ガモウカタヒデ)は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られたのが、氏郷である。その際に、信長は彼の資質を見抜き信長の官名である「弾正忠」から「忠」の文字を与え忠三郎と名乗らせ、小姓の一人に加えたのである。信長は彼を可愛がり娘の冬姫との結婚を示唆している。その後は、織田家一門として手厚く保護され、家臣となった。

武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房(キタバタケトモノリ・モトフサ)(現在の三重県津市近辺)との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻め、元亀元年(1570年)の姉川の戦い(浅井・朝倉VS織田・徳川)、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島(一向一揆VS織田)攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。
数多の戦いで、先陣に立ち武功を挙げ、現場活躍を見せたに違いない。
天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
光秀は明智光春(アケチミツハル)、武田元明(タケダモトアキ)、京極高次(キョウゴクタカツグ)らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻略に移る手筈だったが、直前山崎の戦いで敗死した。
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。
清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や1590年の小田原征伐などに従軍する。

その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄、四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。城は、蒲生群流の縄張りによる城作りを行い、7層の天守閣(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

一方、天正15年(1587年)7月には、秀吉から「羽柴」の姓を賜っている。
秀吉の姓を賜った時から自身の有力家臣に蒲生姓を乱発し、家中に稀少なるべき同名衆を大量生産し、前田利家にたしなめられている。蒲生家中に蒲生姓の家臣が多いのはこのことによる。(蒲生頼郷・蒲生郷舎など)
また、家臣を大切にし、また茶湯にも興味を示して利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており(千利休の死後、その子息少庵は氏郷の許で蟄居している)、諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評される。また和歌にも秀でており、会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐にて故郷日野を偲んで詠んだ歌「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」が有名。またキリシタン大名でもあり名をレオンと言う。
時代は遡り、賤ヶ岳の戦い後、柴田勝家の寄騎であった佐久間盛政(サクマモリマサ)の弟の佐久間安政・勝之(サクマ ヤスマサ・カツユキ)兄弟が氏郷との対面の際に畳の縁に躓いてしまう失態を演じてしまった。この際に傍にいた小姓衆がその様を笑うと、氏郷は「お前達は畳の上での勤めが一番であろうが、彼らは戦での働きが一番なのだ。笑うなど持っての外」と嚇怒して、特に二人の家臣に恥をかかせなかった。家臣を非常に大切にする氏郷の人望の厚さを物語るエピソードである。後に佐久間安政・勝之兄弟は彼の部下を大切にする気持ちに感銘を受け、家臣となっているから当時の氏郷の部下に対する思いが汲み取れる。

以降は、会津の旧領主である伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(なお、この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実(クノヘ マサザネ)の乱を制圧。翌文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)2月7日、京都の伏見蒲生屋敷において死去。享年40であった。当時、氏郷を診断した医師・曲直瀬玄朔が残したカルテ「医学天正記」には、文禄の役へ出兵の途中、既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記されている。今でいう直腸癌または膵臓癌だったと推測されている。

その後、蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)
理由としては、人望と行動力が乏しかった秀行は家臣団と対立し、離反が相次ぎ秀吉は蒲生家に減俸を命じたのである。しかし、父の時代に有力な家臣団を創り上げており、秀行は助けられ、明治期まで蒲生家は、藩として存続して行くのである。

家臣を思いやり人望厚く、戦場でもやり働きで活躍し頭角を現した氏郷。茶道、和歌などにも秀でた文化人であった氏郷。楽市楽座を推奨し地元から商人を作り出し環境造りを行った自らが商人となり自領で生産した特産品の販売を推奨した氏郷。
そんな氏郷の考え方を基本とし、目標とし、現代の氏郷みたいな人物になりたいです。

]]>
admin 2009-10-06T19:37:30+09:00
宇喜多 直家(ウキタ ナオイエ) http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/10/post_35.php 宇喜多 直家(ウキタ ナオイエ)
この武将は、とてもマイナーで、ごくわずかなマイナー戦国武将名を知っている人だけが知っていると言う武将である。この武将は、あまり好きではないが、弊社のN社員からのリクエストで紹介させていただきます。

宇喜多家と言えば、宇喜多秀家ならお分かりの方がおられると思います。
関ヶ原の戦いにて西軍の副大将を努めた豊臣五大老の一人で戦後は家康の免状を受け現在の八丈島へ流された秀家の父親に当たるのが、今回ご紹介させて頂く宇喜多直家です。

直家は戦国を代表する極悪人である。その為、あまりファンが少なく、ごく一部のファンが存在するみたいである。そんな彼の行いを見てみよう!

享禄2年(1529年)、宇喜多興家(ウキタ ノリイエ)の子として生まれる。備前国邑久郡豊原荘(現在の岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城(トイシジョウ)で生まれたとされるが、正確な史実の裏付けは不明です。

天文3年(1534年)、祖父・宇喜多能家が他家の島村盛実(シマムラ モリザネ)らによって暗殺された。直家わずか6歳であった。その後、父・興家と共に放浪の人生を送ったという。成人(15歳)すると天神山城主、浦上宗景(ウラガミ ムネカゲ)に仕え浦上家臣団の中で頭角を現す、
直家は策謀に長けており、祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、中山備中守や龍口城主穝所元常を殺害、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たした。

永禄9年(1566年)2月には美作(岡山県東北部)へ進出した備中(岡山県西部)の三村家親(ミムラ イエチカ)を、阿波細川氏の浪人遠藤兄弟(又次郎、喜三郎)を起用して鉄炮で暗殺。翌年7月の明善寺合戦によりそれまで備前国西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。

その後、自身の姻戚関係の金川城主、松田元輝・元賢(マツダ モトテル・モトタカ)親子、さらに岡山城主、金光宗高(カナミツムネタカ)を没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった。

永禄12年(1569年)、織田信長や西播磨(現在の兵庫県西部)の赤松政秀(アカマツ マサヒデ)と結託し主君である浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら赤松政秀が青山・土器山合戦で黒田職隆、孝高(クロダ モトタカ・ヨシタカ)親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正(イケダ カツマサ)、別所安治(ベッショ ヤスハル)なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に浦上宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされた。
なぜか、この時特別に助命され帰参を許されている。

天正2年(1574年)に再び浦上宗景からの独立を狙う直家は、小寺氏預かりとなっていた宗景の兄・浦上政宗の孫・久松丸の存在に目をつけ小寺政職に久松丸の備前入りを打診し、許可を得るとこれを擁立し宗景に対して反旗を翻す。今回は久松丸の擁立と直家の事前の諜略により美作や備前国内での宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、更に宗景と犬猿の仲であった安芸の毛利氏と結び軍事面での不利を覆す。天正3年(1575年)の毛利氏による三村氏攻撃にも加勢するなど協同体勢を取った。同年9月、宗景の腹心であった明石景親(アカシ カゲチカ)ら重臣たちも内応させ宗景を播磨国へ退け、備前のみならず備中の一部・美作の一部にまで支配域を拡大した。
宗景追放後も依然として備前には旧浦上家臣の勢力が残っており、また宗景や一門の浦上秀宗なども播磨からこれらと密かに連絡を取り合い、度々備前に潜伏する旧浦上家臣の煽動した小規模な蜂起に悩まされる事となる。この状況は天正6年(1578年)12月の浦上残党が一斉蜂起し、幸島を占拠するという事件まで続く事となる。浦上宗景・秀宗らが首謀者となったこの武装蜂起は一時期、天神山城を奪うなど勢いを見せ鎮圧には数ヶ月を要した。しかし、これを期に備前や播磨に潜んでいた旧浦上の勢力を領内から放逐し、宗景の領主復帰の野望を打ち砕きついに宇喜多家の領内での安定した支配権が確立される事になった。
しかし、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国方面に進出してくると、これに対抗、天正7年(1579年)5月には信長に内応したとして東美作の後藤勝基(ゴトウカツモト)などを滅ぼしたものの、直家自身も毛利家と手を切って信長に臣従する。以降美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返すが、天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。
その後、秀吉に人質に取られていた次男の秀家はその後、五大老に含まれている。また、正室の父、中山信正もまた、直家に誅殺され所領没収されている。

合戦続きの戦国時代において、これ程まで誅殺、殺戮、裏切りを平気で行った武将は数多存在する中で、直家のやり方は目にあまるやり方である。これ程までして出世意欲を剥き出しにして人を裏切り、人を使い、最後は誅殺を繰り返す行いは、この戦国時代を生きて行くのに必要であり、生きてゆけない事を意味するのである。史実ではこのような事が公にされない信長、秀吉、家康もこの様な事繰り返して、出世しているのである。
直家の生き方も見方を変えれば、当然の事をしたまでと捕らえる事が出来るのである。

]]>
admin 2009-10-06T19:35:04+09:00
ゴルフ http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/10/post_34.php 前回書かせて戴きましたCD「superfly」購入しました。やはり、彼女の歌声は元気が出ます。毎日聞いて会社まで来ております。このCD買ったのですが、以前レンタルで借りておりました(笑)。

で、今回は最近新たにはじめた事を紹介させて頂きます。

突然ですが、最近ゴルフ始めました。

ゴルフはお金がかかりますよね~お金に羽が付いた様に飛んで行ってしまいます(笑)。

ゴルフは難しい・・・・・苦手・・・・・嫌い・・・・・地味・・・・・と思っていたゴルフが今や楽しく感じております。(歳をとったのかな?笑 石川遼君のお陰かな? 弟の影響?)

何が楽しいかと申しますとクラブの芯にボールが当たり、真っ直ぐ正確に思った所に飛んだ時の爽快、爽快さが快感になるのです。あの音が心地よい(笑)
この「快感・爽快感」、最近アイアンを中心にですが、ようやく体感出来る様になりました。
週末の土日、2時間程度打ちっ放しの練習場へ通った賜物です。
ゴルフは理論より、実践あるのみ練習あるのみだと思います。体で覚えるほか無いスポーツだと思います。
しかし、コースに出れば理論が必要かも・・・・・今は体でコツを覚える事を第一に考え、もっぱら打ち込んでます。

言っても正確に飛ぶようになったのは、アイアンぐらいですけど・・・・・
練習あるのみです。頑張ります。

]]>
admin 2009-10-02T19:06:42+09:00
航空自衛隊ブルーインパルス http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/10/post_33.php
ブルーインパルスを皆様はご存知でしょうか?
戦闘機後方から白い煙を出して、大空のキャンパスへ絵を描く飛行隊の名称ですが、あまりご存じない方多いかと思います。

私は、3年前に初めて展示飛行を拝見させてもらいましたが、あれ程の精密且つ優雅に飛行を行うブルーインパルスのエリートパイロットの方々に尊敬致します。演技終了後は誰もが感動と興奮するに違いありません。

ブルーインパルスの組織と目的を紹介させて頂きますと日本の航空自衛隊が誇る展示飛行のみを任務とする、広報活動専門のアクロバット飛行隊です。
主に航空自衛隊の航空基地が主催する日本各地のエアショー(航空祭)に赴き、また、オリンピックやサッカーワールドカップ等で展示を行うなど、幅広く活動を行う部隊です。

使用する機体は「T-4」川崎重工製造の純正日本国産機です。
飛行教育体系に導入することにより飛行教育の近代化をはかるとともに、航空団等の中等訓練支援機等、補助用航空機としても使用 しております。

新遷音速翼の採用及び機体形状の洗練により、低速から高速 までの広い飛行範囲において良好な飛行特性を有、また、スピン訓練を 合む高度な訓練飛行にも対応できる性能を有しています。このため、飛行教育上、 初等練習機から高等練習機への移行をスムーズに行うことができます。

また、各種装備品に対する新技術の採用、点検扉の最適化及びエンジンの着脱容易化等により、すぐれた信頼性・整備性を有し、双発のエンジン、二重の油圧・操縦系統をもつ安全性に優れた機体となっております。

ブルーインパルスは6機の編成で展示飛行を行うのですが、それぞれに役割がありまして、紹介させて頂きます。
1番機はリーダー。すなわち6機を統率する編隊長が搭乗します。
2番,3番,4番機は常にリーダー機に従い編隊飛行の僚機としての飛行を主として実施します。
4番機は、バーティカルキューピッド時のみ編隊を離れて「矢」を描きます。(ハートの絵に矢を描く)
5番,6番機はソロ飛行展示を主として実施し、2機編隊での演技を行う場合は5番機がリーダーとしての役割を担います。
また、6機のほかに、万一故障などで飛行できない機が発生した場合に備え、尾翼に数字が書かれていない予備機が用意されております。しかし、本番のエアショーにおいて予備機が飛行展示を行った事はブルーインパルスの歴史で一度もありません。

是非皆さんも生で戦闘機らしいジェットエンジン音や燃料の匂い、エリート中のエリートパイロットが操縦する機体のしなやかさ、寸分たがわず機体を操縦する正確さ精密さ、どれを取っても素晴らしい飛行技術です。是非航空祭へ行って生で観てください。普段の生活から少しかけ離れた世界が広がり普段と違う世界が広がっております。行く価値はありますから是非。
近日、10月12日(体育の日)に航空自衛隊岐阜基地で行われる航空祭へのアクセスがよいでしょう。

(参考文献 航空自衛隊HP)

]]>
admin 2009-10-02T19:04:44+09:00
島 左近 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/10/post_32.php 島左近と言えば、原哲夫の花の慶次や影武者徳川家康に次いで連載された「SAKON①~⑥巻」の漫画を思い出される方がおられるかもしれない。
もう少し詳しい方なら三成に過ぎたるものがあり、島左近と佐和山の城」と石田三成をもてはやした歌などをご存知かもしれない。
彼は、関ヶ原の戦いにて西軍に着き敗れるのだが、その後左近の遺体や首なども残っておらず、行方不明となった。
東軍の武将たちは、「島左近は空想の人物」とされ江戸時代以降、存在自体の真相は闇の中へ葬られた。江戸時代、真田十勇士と並び舞伎などで演じられ人々に愛された人物であった事は間違いない。
島左近は近年大河ドラマなどの影響で、注目されつつ人物の一人である。
そんな島左近が気になった。

本名:島 清興・勝猛(シマ キヨオキ・カツタケ)勝猛は俗名である。
左近(サコン)は幼名時の名前もしくは、戦場での仇名である。また、歌舞伎の演技名。
ここでは、彼を左近と称して紹介させて頂きます。

彼は、大和国(現在の奈良県生駒郡平群町)周辺の在地領主で、椿井城を本拠にしていたとされる国人の家系に生まれ、隣国河内国(現在の大阪府南部)の守護で、大和国にも勢力を延ばしていた畠山氏に仕えた。畠山高政(ハタケヤマタカマサ)が三好長慶(ミヨシナガヤス)と戦った教興寺の戦いに参加したが、畠山高政は敗北し、左近も敗走している。その際、筒井順政(ツツイジュンセイ)の指揮下で戦ったことが縁で畠山氏の没落後、筒井氏に従属する領主の一人となり、次第に頭角を現し、順政の後をわずか二歳で継いだ筒井順慶(ジュンケイ)を侍大将として盛り立てた。
大和国の覇権を争って松永久秀(マツナガヒサヒデ)との厳しい戦い(筒井城の戦い、東大寺大仏殿の戦い)を続け、一時は筒井家の居城さえ失うほどの苦境に立たされても順慶を支え続けた。
その活躍から松倉(右近)重信(マツクラシゲノブ)と並んで筒井家の両翼「右近左近」と称された。松永久秀を倒し本能寺の変といった存亡の危機も乗り越えて筒井家による大和国の統一を成し遂げたが、その後まもなく苦楽をともにした主君である順慶が病に倒れてしまった。
後を継いだ順慶の甥・筒井定次(サダツグ)とは意見が合わず、筒井家を辞することになった。
その後は豊臣秀長(ヒデナガ秀吉の弟)・豊臣秀保(ヒデヤス秀長の養子)らに仕えたが、両名の死により大和豊臣家の断絶。その後は、浪人となって近江国(現在の滋賀県)に隠棲した。

その頃、近江の領主となった石田三成から、左近に仕官の要請があった。それまでも多くの要請を断ってきた左近は断るが、三成の必死の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄(年俸)で召し抱えられた。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であった。
もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説も有力である。それでも破格の待遇であったことには違いがない。
『多聞院日記』には、天正20年(1592年)4月に左近の妻が「今江州サホノ城(=佐和山城)ニアリ」と書かれており、その頃には三成に仕えていたものと思われる。

朝鮮の役では三成に従軍し、朝鮮へ渡海して軍務の補佐をしたという。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が没して、徳川家康が権力を振りかざすようになると、それを危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけるが、大義名分「義」にこだわる三成はそれを受け入れなかった。

有名なのは近江水口岡山城の長束正家に、1600年会津征伐(上杉討伐)で東海道を東下する家康をもてなさせ、城内に忍び込んだ左近達が斬るという作戦である。正家は渋々左近の策に同意し、家康と約束を取り付けることに成功したが、前夜に家康の元へ間諜(忍者)からの報告が入り、この約束が見透かされた為、左近の計画は失敗に終わった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、家康本陣の美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市北部)へ兵500名を率いて東軍側の中村一栄(ナカムラカズヒデ)・有馬豊氏(アリマトヨウジ)両隊に小競り合いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣アカシタケノリ)隊と共に完勝した。

その夜に島津義弘(シマズヨシヒロ)・小西行長(コニシユキナガ)らと共に提案した家康赤坂本陣への夜襲作戦は、またもや三成に受け入れられずに終わった。

関ヶ原の戦いにおいては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが黒田長政(クロダナガマサ)の鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷一時撤退する(この時、死亡説もある)
正午過ぎに小早川秀秋(コバヤカワヒデアキ)の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなった。
左近は討ち死にを覚悟して再び出陣、正面の田中吉政(タナカヨシマサ)・黒田長政らの軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死(この時、死亡説もある)。

現代の大河ドラマなどでは、この関ヶ原の戦いにて左近討ち死にしたと言う設定ではあるが、左近の死については諸説ある。関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し寛永9年(1632年)に没したとする説もある。(石田軍記、古今武家衰退記、関ヶ原御合戦当日記、新対馬島誌、関ヶ原町史)などの史記には残っている。
さらに、合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだためとされているが、真相は不明。なお、京都市の立本寺には島清興の墓があり、また位牌や過去帳も塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されている事などから、関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている点がその根拠となっている。

左近、最期の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となり、黒田隊の兵士たちは、関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれー!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたと言われる。
江戸初期、筑前福岡城において関ヶ原に出陣し、左近を目撃した老いた武将達が左近の服装について若侍相手に語り合ったが、物指、陣羽織、具足に至るまでそれぞれの記憶が違い一致するところがなかった。これは左近のあまりの恐ろしさが故に記憶が定かではなかったためとしている。

左近の人生は、関ヶ原の戦い前後で活躍を見せる。どこか真田幸村と似ている点が多々ある。関ヶ原の戦いなどの大戦前後の勝負所で真の活躍を見せるとこれ程までに後世印象に残るのかとつくづく思いる。
後世の我々が考えるに左近そのもの自体が空想上の人物だったのかもしれないし生まれた年や没年月がはっきりとしない人物。これもまた歴史ロマンである。

(参考文献 ウキペディア 戦国人物伝PHP 戦国武将生き方の極意PHP)

]]>
admin 2009-10-02T19:02:26+09:00
最近 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/09/post_31.php
先日、CDショップでとある音楽が流れてまして、久しぶりに「ビク、ビク」と体に電気が走りました。
最近の曲は、レンタルで済ましていたのですが、思わずCDを5年ぶりにを買ってしまいました。

その音楽グループは、「Superfly」です。

女性の越智志帆さんがボーカルとして歌っているのですが、彼女は、ギターにピアノ、ハープ、カウベルまでも演奏できるマルチさです。素晴らしいです。うらやましい・・・・・

自分が思うに、最大の魅力はそのボイスにあると思います。一度聞くとやみつきになり誰もが元気になる歌声。パワフルでどこまでも突き抜けていく様な歌声。ますます、このグループが好きになりそうです。

是非皆さんも一度お聞き下さい。

ちなみに一番のお気に入りは、ゆかいになれる
フジテレビ「めざましテレビ」のテーマソングでお馴染みの「やさしい気持ちで」です。

今度は、もう一つ前のデビュー曲が詰まってるアルバム「Superfly」も購入!決定!

]]>
admin 2009-09-24T20:21:59+09:00
三菱マテリアル http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/09/post_30.php
三菱マテリアル様が主催された「総合コース ステップ2」に参加しました。
前回、「ステップ1」を受講し、インサート、ドリルなどの基礎知識を勉強しました。

「ステップ2」では、カタログを手に取り、お客様からの要望工具の選定方法を学びました。人生の中でこんなに多くの時間、カタログを手に取り勉強した事がありませんでした。適応工具の選定は、少し自信が付きましたが、少し難しかった気がします。今後は、少しずつ工具に慣れて行こうと思いました。

この研修を開催して頂きました三菱マテリアルツールズの皆様、有難うございました。
また、この研修へ行かせて頂いた上司の方々、営業のフォローをしてくださった方々、本当に有難うございました。

]]>
admin 2009-09-24T20:20:42+09:00
関ヶ原 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/09/post_26.php
皆様は、関ヶ原の戦いをご存知でしょか?
そうです。今から409年前の1600年9月15日、岐阜県と滋賀県の県境の盆地関ヶ原で発生した天下分け目の大戦である。約20万人が狭い盆地で繰り広げた戦いである。詳細は皆様ご存知の通り、徳川家康率いる東軍と石田三成(毛利輝元)率いる西軍が戦い結果は、小早川秀秋の裏切りにより西軍は大敗を喫し、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らと共に京都六条河原にて斬首された。幕を閉じた。
後世、西軍は逆賊。東軍は正軍として江戸幕府を開いて行く事になる。
最近、この戦いを三成側(西軍)の視点でもう一度見直されてきている。
本当の逆賊は徳川家康、其の方にある見方が出来る。
捉え方一つで、歴史を見る目を変えれば石田三成は当然の事を行ったのだし、逆賊は家康の方にあったのかも知れない。歴史を紐解き見方を変えて考えるのは楽しいし、歴史の決断時に色々と考えを巡らし、見直す事が歴史の魅力だ。

追伸、石田三成の嫡男石田重家は関ヶ原の戦い以降、1686年まで生きています。享年104歳だったそうです。
逆賊であった石田家当主である人物が関ヶ原の戦い以降、生きていたなんて驚きでした。

]]>
admin 2009-09-24T20:19:05+09:00
関ヶ原 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/09/post_29.php
皆様は、関ヶ原の戦いをご存知でしょか?
そうです。今から409年前の1600年9月15日、岐阜県と滋賀県の県境の盆地関ヶ原で発生した天下分け目の大戦である。約20万人が狭い盆地で繰り広げた戦いである。詳細は皆様ご存知の通り、徳川家康率いる東軍と石田三成(毛利輝元)率いる西軍が戦い結果は、小早川秀秋の裏切りにより西軍は大敗を喫し、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らと共に京都六条河原にて斬首された。幕を閉じた。
後世、西軍は逆賊。東軍は正軍として江戸幕府を開いて行く事になる。
最近、この戦いを三成側(西軍)の視点でもう一度見直されてきている。
本当の逆賊は徳川家康、其の方にある見方が出来る。
捉え方一つで、歴史を見る目を変えれば石田三成は当然の事を行ったのだし、逆賊は家康の方にあったのかも知れない。歴史を紐解き見方を変えて考えるのは楽しいし、歴史の決断時に色々と考えを巡らし、見直す事が歴史の魅力だ。

追伸、石田三成の嫡男石田重家は関ヶ原の戦い以降、1686年まで生きています。享年104歳だったそうです。
逆賊であった石田家当主である人物が関ヶ原の戦い以降、生きていたなんて驚きでした。

]]>
admin 2009-09-24T20:19:05+09:00
懐かしのインターン http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/09/post_28.php インターンシップ生が、京都コンソーシアム主催のインターンプログラムに参加し、
この8月24日から9月4日まで弊社に4人の実習生が参りました。
弊社では、毎年受け入れております。

今年は、「わたしたちのエコー」と言う事で、環境レポートを作成してくれました。
内容は、本当に濃いもので、弊社の環境への取組がぎっしりと書き込まれております。
是非、皆様もご覧下さい。

私も実は、京都コンソーシアムのインターンシップに参加した思い出があります。
最後は、関係無いんですけど・・・・・

そのときの初々しい思いをそのままに仕事に取り組んで行きたいです。

]]>
admin 2009-09-08T19:39:41+09:00
戦国武将 http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/08/post_27.php 戦国武将をご紹介させていただきます。
言っておきますが、またもや、長くなります。

今回は、私が大好きな本(マンガ)の主人公を語らせて頂きます。
その本は、講談社から発行されている「センゴク」と言うリアル戦国史漫画です。
一度、漫画「センゴク」をご覧下さい。はまりますから~

著者の宮下英樹さんは、富山県出身の方で、心底戦国武将のマイナー武将にして、戦国史上最も失敗し挽回した男「仙石秀久」を多方面から研究され、戦国時代の戦い方、当時の人々の様子、マイナー武将の与えた影響などの視点から史実や書物から分析され、漫画として分かりやすく描かれている。

そこで無性に、マイナー武将の仙石秀久と言う人物を調べたくなったので、勝手に書かせていただきました。

仙石権兵衛秀久(センゴクゴンベエヒデヒサ)1552年~1614年

天文21年(1552年)、美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
今から約450年前の人物である。

生誕後、越前の豪族萩原伊予守国満の養子となるが、相次ぐ兄の死により呼び戻され、仙石氏の家督を継いだ。そして美濃斉藤家に仕えた。身長は、五尺七寸(約171cm)の巨漢であった。当時、戦国時代の平均身長が155cm~160cm(人骨発掘調査でのデーター)だから171cmは当時としては大きい方であり、巨漢と言われても過言ではない。そんな権兵衛は、15歳の時に稲葉山城陥落が陥落してしまう、陥落の際に、織田軍の柴田勝家隊へ単身馬上槍にて敵陣へ切り込み捕縛され、信長審議の際に堀久太郎秀政の介錯剣法をねじ伏せ、自身の怪力さを信長に見せ付けた所、処刑は逃れ、信長の下で活躍していた木下藤吉郎秀吉の配下に属した。

その後は、秀吉の側近として活躍。信長の京上洛(対近江六角氏)や金ヶ崎の退き(対朝倉氏、浅井氏)などの戦で活躍した。また、三方ヶ原の戦いへも参戦しており、信長の家臣、佐久間隊として参戦している。その際に家康が武田に敗れ浜松城へ逃げ帰る際に脱糞を催した逸話が残っているが、秀久自身も脱糞しており、その影響で、家康と懇意にさせて頂いたとの逸話も残っている。

元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、浅井方の先駆け武将、山崎新平を討ち取り、小谷城攻略などの先駆けとなり、自身も大怪我をするものの天正2年(1574年)には、秀吉から近江野洲郡に1000石を与えられた。秀久22歳の時であった。

武田討伐の長篠の戦いに参戦し、真田信綱、真田昌輝兄弟を討ち取り、活躍し同時期に野々村伊代守幸成の養女、お藤20歳と結婚している。その後、活躍が続き、天正6年(1578年)にはさらに4000石を加増された。

その後、秀吉が信長から中国征伐(毛利家討伐)を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。天正7年(1579年)、秀吉から茶臼山城を任せられ、赤松峠(兵庫県赤松市)を越える播磨道の警護に当たった。また、この時期には秀吉が三木から幾度も通った湯山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。

さらに天正9年(1581年)秀久29歳の時には黒田官兵衛孝高(クロダ カンベエ ヨシタカ)らと淡路島に渡って岩屋・由良城を陥落させた。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去、秀吉の中国大返しと山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。

秀吉が、織田氏筆頭家老の柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで対立。秀久も、羽柴秀勝(織田信長の四男)とともに十二番隊の将として参戦する予定であったが、長宗我部元親(チョウソカベ モトチカ)と共闘した菅達長に洲本城が占拠されたという報を聞きつけた秀吉は、秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。

淡路入りした秀久は菅達長を破り、洲本城を奪還。その後、小豆島を占拠する。
十河存保(ソゴウ マサヤス 四国の豪族)の救援をするために四国へ渡る。手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。ついで讃岐引田に上陸、引田城に入城した。天正11年4月21日、長宗我部勢(高知県の豪族)の香川信景(カガワ ユキカゲ香川県の豪族)らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する。(一説では、この戦いの最中に仙石軍は幟を取られるという失態を見せたといわれている)。敗戦後は淡路と小豆島の守りを固め、瀬戸内の制海権維持に務めた。

天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀久はこれまでの功を評価され、淡路国(兵庫県淡路島)洲本城主5万石の大名となる。秀久31歳の時であった。淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助の水軍を統括し、紀州討伐では湯川一族討伐で功を挙げ、第二次四国征伐の折には喜岡城を落とし、木津城攻めでは城の要を抑え、城内の水源を絶つなど活躍した。そして、天正13年(1585年)、四国征伐の功績により、秀吉から讃岐高松(香川県)10万石を与えられた。秀久33歳。


天正14年(1586年)秀久34歳の時に秀吉の命令で九州征伐(対島津氏)が始まると、秀久は十河存保や長宗我部元親・長宗我部信親らの軍監(秀吉の代理)として九州へ渡海し、島津軍と対峙する。ここで秀久は功に焦って無謀な作戦を立ててしまう。そしてこの作戦により行なわれた戸次川の戦いで島津家久率いる島津軍に豊臣軍は大敗し、元親の嫡男・長宗我部信親や十河存保といった有力武将の多くが戦死してしまう。さらに、秀久自らは諸将の軍を差し置いて小倉城に撤退。その後は讃岐へ逃げ帰るという醜態を見せた。これらの行状に激怒した秀吉は、秀久の所領を没収して、高野山へ追放(現在で言うと懲戒免職)秀久34歳働き盛りであった。

その後、徳川家康の斡旋により、天正18年(1590年)の小田原征伐(対北条氏)の時には陣借りという形で秀吉の軍に加わった。このとき秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加。自ら十文字の槍を振るって力鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をし、戦に参戦。自ら十文字槍を振るって力戦し、伊豆山中城攻めでは先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営で最も要所にある出入り口)の一つを占拠する武功を挙げた。この功績により、秀久は信濃小諸に5万石を得て、大名として復帰した。秀久38歳の時であった。

文禄元年(1592年)、秀吉の命令で朝鮮出兵が始まると、肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより秀久40歳の時に、朝廷から従五位下・越前守に叙任された。文禄3年(1594年)には秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても功績を挙げたため、7000石を加増され、5万7000石の大名となった。秀久42歳の時である。

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近した。三方ヶ原の参戦以来、懇意の中となっていた様だ。秀久48歳の時、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも徳川方として参戦し、家康から北国筋の鎮撫を命じられている。そして、徳川秀忠軍に従軍して上田城攻めに参加したが、城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍は足止めを食い、秀忠は関ヶ原本戦に遅参してしまう。そこで秀久は、秀忠の遅参について激怒している家康への謝罪に努めたため、秀忠が将軍就任後、特に重用されるようになる。慶長14年(1609年)には秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月、秀久59歳の時、徳川家の御謡初めの際には着座している。戦後は所領を安堵され、信濃小諸藩(現在の長野県小諸市)の初代藩主となった。秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す事となるが、一方で、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもある。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。

慶長19年(1614年)、秀久62歳の時、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣(埼玉県鴻巣市)にて5月6日に死去。享年66歳であった。

仙石秀久は、上記でも述べた様に「戦国史上最も失敗し挽回した男」として語られる。
彼の人生を現在に置き換えて考えると、一介のサラリーマンが会社に入社し仕事をひたすらに一生懸命行い、表舞台で華々しく仕事に打ち込んでいたが、30歳半ばで突然、仕事上の大失敗を理由に会社側から解雇を言い渡され、首になったと言う事だ。本来なら他の仕事を探すか、他社への再雇用を考えるが、秀久は追放先の高野山へ入り、修行を行った。追放された4年間は自問自答の日々だったに違いない、本来なら戦国時代、高野山へ追放は武将にとって死を意味しており、今後の人生に絶望し、切腹へ追いやられているケースが多い。前回紹介致しました藤堂高虎も豊臣秀長の死により、同時期に高野山へ追放となっている。その際に、元同僚である藤堂高虎と自分が生きる道、自分が進むべき道などを相談し合い、はっきりと「人生の道」を決め、追放期間もプラス思考で考えを巡らせた。この彼の追放の4年間の期間が、彼の今後の人生を決めたに違いない。
「逆境こそチャンスなり」と言う言葉があるが、この仙石秀久はこの言葉が適任だ。
「逆境こそチャンスなり」と言う言葉を大切にし、日々自分の人生を歩んで行きたい。
また、よき相談役、友人や同僚、先輩を今後も大切にして行きたいと感じた彼の人生でした。

]]>
admin 2009-08-19T19:16:25+09:00
http://www.sankyo-seiki.com/stuff/odori_akinori/data/2009/07/post_25.php
また、また、今年もこの時期がやって来ました~

それは・・・・・題名の通りです。
「昆虫採集」です。
「虫?虫ってゴキブリとか?クモ?」ぜんぜん違います。(クモは昆虫ではありません。)

昆虫採集とは、夏場のこの蒸し暑い時期に、長袖、長ズボンを着込み懐中電灯、長網、カゴを携え、夜な、夜な、とある某場所へ行き、カブトムシやクワガタを採集するのです。

時には、カブトムシだけで200匹300匹なんて当たり前。
もう一人のM氏と共にタックを組み夜な夜な徘徊しております。
(時には丑三つ時にあり得ない怪奇現象に遭遇・・・・・などなど)

まあ趣味ですから疲れは感じないス!
頑張ります。

]]>
admin 2009-07-23T19:39:11+09:00