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歴史の書かれ方。

『戦後史入門』(成田良一)という著作を読んだ。戦後日本のから現代までの歴史を概括的に説明している本かと思いきや、これはそもそも歴史とは何かを問うにあたって戦後日本の歴史を扱うという本であった。
そもそも歴史がなぜ書かれるのかということは、現在を説明するためであり、その時代が良い時代ならばその背景を、悪い時代ならばその原因を探って記述されるのが普通らしい。
歴史が暗記科目と捉えられがちな側面を、歴史は物語だということに目を向けさせてくれる。
高等教育の日本史に置いて沖縄や北海道、戦時中の朝鮮(日本軍占領期)が手薄になっているのはどうしてかという指摘は、そこに「日本の」歴史というものがどのように形成されているのかという批判を向ける起点になる。

 過去の出来事は私たちの知らない範囲で無数にある。年表が作成され、それぞれの年代に何が起こったかを記述される。その出来事は、その年代の象徴的な出来事ということになる。
もちろんそれら以外の出来事は無数にあったろうけど、そこでは捨象されている。
昭和以降の平成の時代に「地下鉄サリン事件」をピックアップすれば、どことなく陰鬱な時代の空気感を説明するのにうってつけとなる。
「誰にとって」「誰からの」歴史なのか。説明しやすいように作られているものほど、都合よく加工されているのかもしれない。

後の時代になって今の21世紀はどんな時代だったと記述されるのだろうか。
エネルギーとエコロジー・通信と情報技術の発展・ウィルスと人の生活環境の変化、などなど、トピックは尽きない。
暗いのか、それとも明るいのか、どのように語られるのだろう。

正直なところ、自分の生まれた平成という時代も自分自身でよく分かっていない。
失われた時代と言われ、暗い時代と言われ、お先真っ暗という見方で過ごしてきたが、自分たちはそれなりに生きているし、いつの時代にもあったであろう幸福と不幸を味わいながら生きてきたし、これからもそうやって生きるのだと思う。

歴史は個人史を捨象するから、人の顔が見えてこない。歴史に人が自分を重ねることもあるだろうけど、それは多くの個人にとって違和感を拭えないことだと思う。
「あなたの時代は暗い時代でしたね。」と言われて「そうですね。」と手放しでいえるようなほどのものではないはずだ。
その時代に生きていたことを忘れさせないために個人史が、物語が歴史の対抗として成立すると考えれば、文学や小説、映画や漫画などの作品の意義はまた違った角度から大きな意味を持つように思う。

歴史も誰かにとっての、誰かに資するための物語であると忘れないように気を付けなければならない。

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