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どうしたら、まともに頑張れますか?(『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)を読んで)

今日の朝、話題作の『推し、燃ゆ』(宇佐見りん 著)を読んだ。
こういった文学作品で「推し」(用例、「アイドルを推す」)という言葉を見るのは珍しい気がする。
アイドルやアニメのキャラクターに限らず、声優といったいろんな「推し」の対象が、少なくとも日本では、最近何かと多い。あと、巷でも「君は誰推しなの?」という声も珍しくはない。どうやら「好き」とは違うらしい。

作品の「私」は高校生の女子で、とある音楽ユニットのアイドルの一人を強く推している。彼女は彼を「推す」ために、なんでもしようとする。関連グッズを買うことだったり、コンサートに足を運ぶほか、ラジオやテレビ番組も全部見て聞いて、ブログにつぶさに感想を書く。その姿勢はすごく熱心で、まじめである。
一方で、彼女は日常生活の「普通のこと」ができない。人の指示を聞く、家事をする、学校の勉強についていく、といったことを「まともに」できない。そのできなさに彼女は苦しむが、「推し(アイドルの彼)を推している間は、うまくやれている気がする」という。
アルバイトや学校生活、家での日常的な場面において、彼女は「どうしてできないの?」と人から、両親から言われ続ける。彼女自身も分からない。しまいには「アイドルを追っかけるだけの元気はあるのにね」とまで言われてしまう。

周りの文脈と自分の心が合っていないときのちぐはぐさ、この気持ち悪さを丁寧に描いている点が、この作品のすごいところだと思う。
引いてみれば、彼女がやっていることは虚無のようなことであるともいえる(アイドルに金をつぎ込んで何になるの? という声。) 
しかし、彼女は「推す」ことで、なんとか生活をすることができているようにも見える。彼女の頑張る理由の宛先は、いつもアイドルの彼である。彼を推すために(彼に近づこうとすることでは、決してない)、彼女は生きていられるのである。
彼女は、生きる理由をそこに強く見出していたからである。
しかし、「推しも人間だった」のであり、最後に彼女はそれをひしひしと感じていく。

信じる対象が何に向かうか、という話なのかもしれない。
アイドル (idle)は 偶像で、「推す」とは崇拝に近いことなのかもしれない。しかし、「推し」が人間である以上、対象が推す人たちの理想通りとは限らない。
人は神様じゃないからだ。
しかし、生きている以上、人は何かを信じないと立っていられない。信じることで強くなれるというのは嘘じゃない。
少なくともこの作品の彼女は、できないなりに生きていこうと必死になっていたのだ。
その中での「推す」という行為が、そしてそれが叶わなくなっていく過程が、何より痛々しくて切ないと、強く感じさせられた。

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